ふしぎデザインブログ

デザイン事務所「ふしぎデザイン」の仕事や考え、メイキングなどを掲載するブログです。

ファンタジーの中の生物


先日の展示の会期中に、作品の参考になりそうだと二冊の本を紹介してもらった。
別々の方からの紹介だったのだが、両方とも「空想上の生物」を緻密に描いた本だったという共通点がある。僕の作品がそういうものだったから当たり前といえばそうなのだが、自分のテーマにどんぴしゃな本を薦めてくださったということは、考えていたことが少しは伝わったのかなと嬉しかった。



薦めてもらったのは、「地球の長い午後」と「鼻行類」。
前者は植物に支配された未来の地球を描くSF小説、後者はかつて存在した群島に生息していたとされる哺乳類についての論文のかたちで、それぞれ独自のファンタジーの世界と、そこに生息する奇妙な生物たちを克明に描写している。二冊とも参考になる情報が多く、とても価値ある本だった。
それぞれの本を読んでいて、作者の想像力の豊かさや登場する生物の多様性、またその生態がもつ説得力に感心しきりだったのだが、ひとつ気になることがあった。どちらの作品に出てくる空想生物も、どことなくグロテスクなのだ。



「地球の長い午後」における植物は、退化し弱体化した人間をもてあそぶ強大なエイリアン的存在として描かれているし、鼻行類にしても「鼻(が発達した器官)で歩く」という特異な設定にもとづいているので、奇妙な形になってしまうのはある意味必然だと言える。しかし、それにしたってちょっとやり過ぎだろうというようなキャラクターデザインの目白押しだ。なぜそこまでやっちゃうのか。
と思ったのだが、思い返せば自分の描いた絵もちょっと気持ちわるいかもしれない。というか、想像上の生き物ってグロテスクなものが多い気がする。なぜかと思い、いくつか理由を考えてみた。

①存在しない生き物を考えてみるような人は、だいたいグロテスクなものが好き
②物語のなかで、想像上の生き物は大抵敵役なのでわざとグロテスクに造形する
③人間が頭で考えた形は、自然が長い年月をかけて作ったものと比べて完成度が低いのでグロテスクに見える

①と②も当然ありえる理由なのだが、ここでは③に注目してみたいと思う。というのも、これは自分の作品制作上けっこう大事なポイントだと思うからだ。



生き物にみられるかたちは、細胞が覚えているプログラムにもとづいて内側から生成されてくるものだ。丸太を製材し加工して椅子をつくるようなプロセスとは全く違ったやりかたで形作られるそのフォルムには、造形上の破綻やきしみがない。(ぎょっとするような形の生物もたくさんいるが、それはまた別の問題だ)というよりも、根・幹・葉あるいは骨・内蔵・肉にそれぞれ少しずつ分化し造形するという方法をとっている限り、めったなことでは形状の破綻は起きないのだろう。かたちを決定しているのは、生物が長い長い年月をかけて蓄えてきた経験だ。

その点、人間が想像する生物は、言葉によって造形される。例えばペガサスは「羽の生えた馬」だし、キメラは「ライオンとヤギと蛇が合体したもの」だ。鼻行類にしても、挿絵はあったものの「鼻で歩くほ乳類」というキーワードをもとに、はじめは文章で描写したのだろうと推測できる。言葉で構築したコンセプトをもとに、元々とは全く違った手法(既存の動物を観察し、要素を組み合わせて新しいものを考える)で自然の形を真似ることになるのだから、よっぽど注意深くデザインを行わないと造形は破綻してしまう。ファンタジーの世界に登場する架空の生き物は、キャラクターとして完成していても、生物としては不完全なものなのだ。


自分で架空の植物を絵に描いてみたり、本を読んだりしてみてそんなことがよくわかった。まあ、今回のテーマは、完成度の高い生物を考えるというより楽器のような植物というキャラクターを想像するというところにあるので、もっと種類を出して2月の展示に備えようと思う。