ふしぎデザインブログ

デザイン事務所「ふしぎデザイン」の仕事や考え、メイキングなどを掲載するブログです。

文学のなかのもの

 

先週末、大学のころの友人と話していた時に、小説、特に戦前の文章の「ものを描写するテクニック」ってすごいよねという話題になった。夏目漱石が羊羹のことを書いた文章とかすごいよという話。あまり思い出せなくてもどかしい思いをしたので、家に帰ってからどんな書き方だったのか調べてみることにした。その一説は「草枕」の中にある。

夏目漱石 - 草枕

 

余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹がだ。別段食いたくはないが、あの肌合らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出してでて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。クリームの色はちょっとかだが、少し重苦しい。ジェリは、一目宝石のように見えるが、ぶるぶるえて、羊羹ほどの重味がない。白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、言語道断の沙汰である。

 

何かを描写するには観察力と表現力が必要だ。それは絵でも文章でも同じだと思う。文章の場合、表現力はボキャブラリーとかレトリックになるんだろう。このテキストでも、「羊羹をほめる」ということに対して、いくつもの魅力的な言葉が気持ちよく使われている。

 

・肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける

・玉と蝋石の雑種のよう

青磁の中から今生れたようにつやつやして

 

これだけ沢山の良い言葉が羊羹をほめるために繰り出されるのだ。Twitterばっかりやっている僕にはほとんど衝撃的です。「羊羹って洋菓子とは違った魅力があってめっちゃ良くない?」では伝わらない魅力を余すところなく伝えて余りある。表現が豊かすぎて、それについて何か書くのがばかばかしくなりますね。

(ちなみに、ちょっと調べたところ、文中の「青い煉羊羹」については、抹茶色の羊羹だったとか、茶色の羊羹の色の深さを「青」という言葉で表したとか諸説あるようだ。僕は後の方の解釈が好み)

 

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V&Aミュージアムで見た楽茶碗。全世界の焼き物が所狭しと並べられている中にすっと置かれていて、なんだかほっとした気持ちに

 

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日本的な美を書き表した表現についてもう一つ。僕は社会人になってから読んだのだが、建築、デザイン関係の学生の間ではとても有名な本だという、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」から、金色の使われ方についての一節。

谷崎潤一郎 陰翳礼讃

 

諸君はまたそう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。

その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。そして、その前を通り過ぎながら幾度も振り返って見直すことがあるが、正面から側面の方へ歩を移すに随って、金地の紙の表面がゆっくりと大きく底光りする。決してちらちらと忙がしい瞬きをせず、巨人が顔色を変えるように、きらり、と、長い間を置いて光る。時とすると、たった今まで眠ったような鈍い反射をしていた梨地の金が、側面へ廻ると、燃え上るように耀やいているのを発見して、こんなに暗い所でどうしてこれだけの光線を集めることが出来たのかと、不思議に思う。

 

・遠い遠い庭の明かりの穂先

・ぽうっと夢のように照り返して

・沈痛な美しさ

・眠ったような鈍い反射

 

すごすぎやしませんか。眠ったような鈍い反射!ほの暗い畳敷きの部屋で金のふすまがわずかに光る様子が目に浮かぶようだ。

この段落よりも前に、「日本の蒔絵とかって結構派手な金色の使い方をしているけど、それが派手に見えるのはもともと想定されていたより明るく白い空間で見ているからで、本来は薄暗い部屋で見るのが一番綺麗である」というくだりがある。それを読んでから再度見てみると、よりここで描こうとしている美しさの正体に近づきやすいと思う。

一節の中で、個人的に最高だと思うのはこの部分。

 

・巨人が顔色を変えるように、きらり、と長い間を置いて光る

 

「、」の使い方含めて美しい。天才。

 

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近所の古い家の軒先から下がっていた照明。すりガラスのシェードが光を柔らかくしている

 

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最後に、宮沢賢治銀河鉄道の夜」から。列車で目を覚ましたばかりのジョバンニとカンパネルラが、窓の外に広がる天の川に目を奪われるシーン。

宮沢賢治 銀河鉄道の夜

 

その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどきの加減か、ちらちらいろのこまかな波をたてたり、のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。

 

・ガラスよりも水素よりもすきとおって

・紫いろのこまかな波をたてたり

・声もなくどんどん流れて行き

 

「天の川の水」は、上2つの例とは違って現実には存在しないものだけれど、この文章を読むと、それがどんなものか分かるような気がする。

透明度が高すぎて、光のゆらめきのように見える液体。空気のようにさらさらしているので、波立つことはあっても音を立てることはない水。水晶やシャボン玉のような、はかない紫色のハイライト。

 

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島根の海辺。これはこれで綺麗だけど、天の川の風景はきっとこういう色ではないよね

 

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優れた文章による描写を読むことで、自分が見過ごしていたものの美しさに改めて気づき、ものの見方の解像度をぐっと上げることができる。夏目漱石の羊羹語りを読んだ後に羊羹を食べれば、その魅力により深く迫ることができそうだ。味も変わって思えたりして。また、谷崎潤一郎に何かプロダクトを語らせたら、角Rの端に入るハイライトライン一つとってもかなり雄弁に描写してもらえそうだ。

 

自分の身を省みて、もののデザインをするときに、自らが作る形をこんなに細かく見ているだろうかと思う。案外、フィーリングで形状を決めたり、データやデザイン与件の成立しやすいようにしちゃってないだろうか。美しいレトリックで飾るまではゆかなくても、一つ一つの要素に意味を持たせているだろうか。正直、いままでの仕事ではそこまでのことはできていないんじゃないだろうか。

優れたデザイナーは、自分が今見るよりもよっぽど深く、詳細にものを観察し造形することができるのだろう。それこそ、夏目漱石谷崎潤一郎のように。