工業デザインの練習帳

1988年生まれの工業デザイナー秋山慶太のブログです。

八百万の神さまとデザインされたプロダクト(もののけデザイン2)

前回書いた記事を元に、「もののけ」のデザインについてさらに考えていこうと思う。今回は、「神さま」と「人と共生するプロダクト」の共通点をいろんな面から見てみることにしよう。まずは和歌山は高野山の話から。

 

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高野山のコダマたち

昨年の11月に、初めて高野山を訪れた。

山の上の町、見事な杉やヒノキの森、荘厳な朝のお勤め、色々見どころは多かったが、もっとも印象に残ったのは、奥之院に続く参道のそこここに佇む、小さい石像だった。

 

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顔の彫りはないけれど、不思議に穏やかな表情が見えるよう

 

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上のものより立派。お地蔵さんかな?

 

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 これらなんか仏さまの像というより石のかたまりみたいなのに、気配を感じる

 

 

前回も触れたもののけ姫の「コダマ」に似た見た目の、愛らしく物悲しいようなこの石仏。これらは高野山が持つ長い歴史の中で、参拝者が家族の供養のために持ち込んだ石塔―庶民たちの無縁仏なのだそうだ。

彼らは奥之院の森のそこここに無造作に佇んでいる。その数は数百ではきかず、数千、もしかしたら数万もあるのではないか。可愛らしい前掛けや毛糸の帽子は誰がかけてあげたのだろう。

 

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参道の一角に、石塔を積み上げた小山まである。このあたりの土を少し掘るだけで、無縁仏が無数に見つかるそうだ

 

現地でこれらを見たときに、そのただごとではない雰囲気に圧倒された。

広い森の中どこまで行っても石塔だらけなのだ。ほとんど無限にあるのではと思わせる数だった。

でも、不思議と恐ろしい雰囲気は感じなかった。代わりに見てとれたのは、優しく穏やかな空気、不思議な愛らしさ、長い年月の間に徐々に風化していった悲しみのようなもの、誰のものかもわからなくなってしまった気持ちの痕跡だった。誤解を恐れずに言えば、とてもかわいかった。

僕は信心深い方ではないけれど、何か神さまっぽいものがそこら中にいるなと思わせる、不思議な神聖さの漂う空間だった。

 

 

日本独特の神さま/ロボット観

上で、石塔に対して「かわいかった」と書いたが、実はこれは日本人的な感じ方なのだという。その背後には、大木や巨石、身の回りの道具など、あらゆるものに神さまが宿ると考える、八百万的世界観があるようだ。一神教の世界では、神さまは崇めるべき偉大な存在であり、かわいいという言葉の対象にはならない。神さまのことを「かわいい」と思う感覚は、多神教、もっと言えばアニミズムの世界に特有のものなのだ。

八百万の神々が存在する世界観は、僕たちが思っている以上に日本人に根深くインストールされている。そしてその認識が、ドラえもんやアトム、asimoなど、独特のプロダクト―ロボットたちを生み出すための素地になっているというのだ。

書き手不詳のネットの記事だけれど、この文章を読むとそのような見かたがわかる。

 

ロボット・アニメとアニミズム

 

いちばん気になるところを引用してみよう。(太字はあとからつけました)

世界に衝撃を与えた日本人のロボットへの感性の根幹には、日本人の持つアニミズムの呼吸がある。私たちがロボットを―現実の日常に進出してくるにはまだ時間を要するとはいえ―人類の友、あるいはパートナーとして認識するとき、そこには非生物への感情移入が成立している。この種の共感:感情移入は、アニミズム-しばしば、思考や情緒が未発達な幼児に特有のものとして‐西洋では定義される。しかし、日本では擬人化は子供の独占物ではない。直接的にアニミズムを描いたジブリから、びんちょうタンや鉄道擬人化といった萌え文化に至るまで、アニミズムを母体とした日本人の感性がいきている。もっとも、多くの場合、日本人自身がそうした思考体系に目を向けることはなく、したがって意識されることはない。西洋の目を通すことで初めて、ロボットに抱くアニミズムの呼吸に気づくことになる。

 

 先ほど書いた、石塔に対して「かわいい」と思うことはまさに非生物への感情移入だ。

石塔をかわいいと思うことは、コダマやドラえもん、自分たちで生み出したプロダクトをかわいいと思うことと同じ感覚だし、それは偉大なる神に対して抱く畏怖の念よりも、もっと素朴で日常的な感覚であるように感じる。

その意味で、僕らの頭の中では、人間が作ったロボットと超自然の神々が区別されていない。

だからこそ、(ターミネーターじゃなくて)ドラえもんのような、ユニークで可愛らしい存在であるロボットを想像することができるんだろう。 

 

 

 ものに憑依する神々

尊敬する作家のひとり、メディアアーティストの市原えつこさんの作品に「デジタルシャーマン・プロジェクト」がある。亡くなった人との別れを時間をかけて理解するために、49日の間、その人を憑依させたロボットと暮らすというものだ。

 

vimeo.com

サムネイルのお面の主に昨年深圳でお会いしました

 

 『デジタルシャーマン・プロジェクト』では、科学技術の発展を遂げた現代向けにデザインされた、あたらしい弔いの形を提案しています。現段階では家庭用ロボット「Pepper」に故人の人格、3Dプリントした顔、口癖、しぐさを憑依させたものを開発しました。このプログラムは死後49日間だけPepperに出現し、49日を過ぎると自動消滅します。

 

先日ICCの展示で見た際にはpepperではなくもっと小さいロボットを使っていたが、なんというか喋るセリフがリアルなのだ。(「エアコン設定温度下げていい?」とか)故人のふとした存在感を味わうことを通して、その不在を受け容れるためのプロダクト。ロボットを人格の依り代にするというアイデアがすごい。ICCでロボットに憑依していた人格は当然ながら僕にとっては他人なのだが、もし自分の親族や友だちだったらどういう気持ちになるのか想像したくなる、心のひだを触られるような作品だった。

これもある意味、非生物への感情移入だ。「人間が人間以外の存在と共同生活する」のが当たり前の、アニミズム的世界観の上に成り立っている表現なのかもしれない。

 

 

 新しい方法で神さまをデザインする

先日入手した本「未来を築くデザインの思想」に掲載された面白いタイトルのエッセイがあった。ブレンダ・ローレルというデザイナーによる「デザイン・アニミズム」というテキストだ。

 

未来を築くデザインの思想-ポスト人間中心デザインへ向けて読むべき24のテキスト

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コンピュータとその作用を生活に深く浸透させること(パーベイシブ・コンピューティングというらしい)と、アニミズムとの関係を考える内容で、正直難しくて内容が読み取れない部分もあるのだけれど、その一部分に好奇心を非常にそそる記述がある。(太字はあとから)

 

 私の庭には、妖精たちがいる。

妖精の1人は、ラベンダーに着目している。その妖精は花々の歴史を知っていて、日向や日陰が時間の経過とともに庭をどのように移動していくかも知っている。(中略)水の妖精たちは草花の周囲の土を味見して、乾きすぎていたら湿らせてくれる。トカゲたちがヒイラギナンテンから薪の山まで走るのを見たトカゲの妖精たちは、私の机の上でダンスをする。

私たちは妖精を見る―つまり考え出す。しかし今、それを実際に作ることもできるのだ。私たちは初めて、知覚を有して独立して行動できる実体―独立していなくとも、実体同士もしくは生物と交流して行動できる実体を創造する能力を持ったのだ。創造された実体は、学び、進化することができる。新しいパターンを露わにし、私たちの感覚を拡張し、私たちの行為の主体性を強化し、私たちの心を変化させる

 

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                   wikipediaより引用

文章の前後から見るに、ここで描かれている「妖精」は、人間の手で作られた「妖精のようなプロダクト」であるようだ。アニミズムとは万物に神さまが宿ると考える宗教観なのだから、これはエッセイのタイトルでもある「デザインされたアニミズム」(原文ではDesigned Animism)の具体例と言えるだろう。

これらの妖精たちを今ある言葉で形容するならば、いわゆるIoTになるのだろうか。お互いに、あるいは人間とコミュニケーションをする、愛らしい「もの」たちの姿は、付喪神の例を持ち出すまでもなく、妖精や日本における神々ときわめて近い…というか、極論を言えば同じだ。

 

なぜならば、神々はかつて、雷や嵐、夜などの「人智を超えたできごと」を説明するためのコンセプトであったからだ。アニミズムの神々は、人間が彼らを想像することで世界の中に姿を現した。僕らの祖先は、神話や口伝をメディアに、人間に解明できない不思議を担うものとして「神々をデザインしていた」と言えるだろう。

そして、その方法は、上の文章で筆者が描き出そうとしている、「妖精」たる新しいプロダクトやアプリケーションを生み出す手法と、根源的にはまったく同じではないだろうか?

 

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というわけで、「もののけ」と「プロダクト」は、実はけっこう近いものなんじゃないかという話を書きました。次回(まだ続く!)は、「もののけとしてのプロダクトはどんな姿をしているか?」というテーマです。できるだけ早めに書きたいぞ!